おとなの絵本クラブ

大人目線で楽しむ絵本や児童書の記録。調布市・つつじヶ丘の古民家「もえぎ家」を拠点に、絵本を読み合い、語り合う会を開催しています。

見送る、守る、繋いでいく

「見送りに行かなかったら、絶対に後悔するから!」

電話の向こうにいる母に向かって、私は言った。いつの間にか目には涙も溢れていた。母の前で泣くなんて何年ぶりだろうか。

数日前、母方の祖父が亡くなった。葬儀があると言うのに、母は、私がまだ産後間もないからといって参列しなくていいというのだ。

祖父が亡くなる1週間前に会いに行こうとした時も「おじいちゃんの弱った姿を見せたら、子どもがショックを受けるだろうから」と、祖母から断られたのだ。あの時に行っていれば、最後に会えたのに……。

なんでいつもこうなんだろう。私が中学生くらいの頃、父方の祖父が病院で闘病している時も「おじいちゃんが元気になるまで待って」と2年近く会わせてもらえないまま、祖父は帰らぬ人となった。葬儀場の棺の中で静かに眠る姿を見て初めて、強引にでも会いに行かなかった自分を責めた。

 

今回も、最期の見送りさえしなかったら、また後悔する。そう思い、葬儀には必ず参列することを母に告げて電話を切った。

 

それにしても不思議だ。

正直なところ、決して「大好き」とは言えなかったのだ。父方の祖父のことも、母方の祖父のことも……。小さい頃は特に、大人の男性が苦手で、おじいちゃんという存在は近寄るのも怖かったくらい。それが今になると「あの笑顔にはもう会えないんだ」と思うと涙が出てくる。

ともかく親戚というものは、血が繋がっているから義務的に会わなければならないものだと思っていた。実際、親戚の集まりは、誰一人として楽しそうに話をしている人はおらず、義務感で集まっているような雰囲気がいつも息苦しかったのだ。ただ単純に、親族のそれぞれがあまり社交的ではないだけかもしれないが……。

家族も同様に、血が繋がっているおかげで、嫌でも一緒に過ごさなければならないものだと思っていた。きっと両親なりに愛情を注いで育ててくれたのだろう。でもそれは、いま子育てしてみてやっと気づけること。自分が子どもの時は「こんな親だったら良かったのに!」とか、「もっと私のことをわかってほしい!」なんてことばかり考えてしまっていた。家族というものに、夢など一切抱いていなかったのだ。

 

 

そんな私が3人の子どもに恵まれるとは。しかも「家族ってすばらしい!」と思っているなんて、若い頃の私が知ったら驚くだろうな。義務的に一緒にいなければと思っていた両親にも、しばらく会っていないと「会いたいな」と思うし、親戚にも久しぶりに会うと嬉しい気持ちになるのは、子どもを産み育てる経験をしているおかげなのか。

 

3人目はこの春に生まれたばかり。産後の手伝いに来て動き回る母の姿に、自分に似ているところを見つけては、「うわー、こんなところが似てるのか!」と面白がってみたり落ち込んでみたり(笑)。同じく、産後の手伝いに来てくれた義母の姿に、夫に似ているところを見つけては、「そっくり!」とクスクス笑ってしまったり。

 

確実に、私たちは彼らの血を受けて生きているのだ。

亡くなった祖父や祖母、顔も知らぬそのまた父や母の血も……。いのちはこの世からなくなってしまっても、彼らの血は、私たちの中で、子どもたちの中で、流れ続けている。

いのちを見送ったあとは、私たちが生きて、次に繋いでいく番。別れは悲しいけれど、もう会えないあの笑顔は、心の中で鮮明に輝いている。心の中で、ちゃんと生きているんだ。

 

小3になった息子は、祖父と会った思い出もほとんど忘れているにも関わらず、お別れの時に泣いてしまった。情深いところがある彼は、今年のはじめに父方の祖母が亡くなった時も泣いていた。それから少し成長したのは、「もう最期だから笑顔で見送らなくちゃいけないのに、我慢してても涙が出てきちゃう」と言ったこと。どんな風にお別れをしたらいいのか、彼なりに考えているようだ。

 

長男よ、大丈夫だよ。今は悲しいけれど、彼らから受け継いだ血を、いのちを、守っていこう。

それが生きていくことであり、先祖の方々が生きた証であり、死を受け入れることなんだと母は思ったよ。

母も、あなた達を産み育てることで、素直に「大好き!」って言えなかった先祖の方々にも、ありがとうを伝えていくよ。

 

見送る、守る、繋いでいく。

祖父母の死、息子の誕生、実母と義母に支えられた産褥期……。

ここ数ヶ月で、家族というものがさらにグッと近くなった気が。

日々の子育てにはイライラもツキモノで、反省もしばしだけれど、いただいたいのちに感謝する気持ちは忘れずにいたい。

 

 

イムリーにも、先日行われた長男の学校公開(授業参観)でも、いのちがテーマに取り上げられていました。その時に使われていた絵本がこれ。

いのちのまつり―「ヌチヌグスージ」

いのちのまつり―「ヌチヌグスージ」

 

 「ご先祖様の誰1人として欠けても、自分は存在しなかったんだ!」と気づいた時の、子ども達のキラキラした目、可愛かったなぁ。そして、授業中なのにちゃっかり兄の横に座り、小学生に混じって嬉しそうにお話を聞いている娘(3歳)も。

 

3つのいのち、元気にはじけろ〜!